日々のバリゾーGON

日々の罵詈雑言を書き連ねた日記です

ちょっと跳ばす

母は父の寿命が「あと2,3年だから。悔いを残したくない」と介護を頑張っていました。思えば脳梗塞後に父の自由にさせておけば、父はもっと早く逝っていたでしょう。それが母の献身で元気になってしまい返って母を苦しめた。今は生きる気力さえあれば、200歳まで生きることが出来るように思います。

母の術前のレントゲンを見ると、腰の骨がハロウィーンのカボチャの歯のようにガタガタでした。よくまあ、こうなるまで放っておいたもんだ、と思ったものです。母は父より9歳若いので、まさか自分が先に死ぬとは思っていなかったのでしょう。病床でも「お母ちゃんが先だったらどうする?」と尋ねた時、そんなこと考えるなんてナンセンスと言う表情をしていました。

医大での様子は追々書いていくことにします。是非お知らせしたいのですが、辛いことが多いので。

母の通夜・葬儀をあわただしく終えたあと、父の主治医から電話がありました。
「お父さんがコロナに感染したので隔離します。しばらく面会は控えてください」・・おかげで母を亡くした悲しみに浸ることが出来ました。ここからは冷静な私の気持ちです。何かタイミング良すぎない?もしかして父もこのまま?いや、それは困る。だって、母が亡くなってすぐに父も、なんてことになったら、母の入院後面倒を見ていた私が殺したみたいに思われるじゃないか?それは、非常に非常に困る!だから何としても助かってくれ!お父ちゃん!

父は復活しました。凄い生命力・・。その後、胆管に管を入れる手術をし、経過は良好。主治医は胆管癌の治療は出来ないが、3か月後に胆管のステント手術が出来るから、それをお勧めします。ただ、癌が大きくなってステントを圧迫するとまた胆管炎を起こすと言われました。

母を亡くした悲しみが大きく、父まで亡くすわけにいかないと、私は主治医の言葉に同意しました。
父の面会は毎日行っていましたが母のことは言えずにいました。ただ日々弱っていく姿、認知症が進んでいく姿を見ていると、最後は自宅で過ごさせてやりたいと思い、2月下旬に退院させました。
退院前に母が亡くなったことを伝えました。「・・そうか、あの子はよくやってくれたよ」それだけ?
そんなもん?どんな夫婦だったんだろう。
今は、父の介護のためM屋というファーストフード店を辞め、介護中心の生活。
退院後しばらくは弱っていましたが、今は元気になりました。あれ?

退院の際、主治医が「退院して一週間で再入院できるし、本人には胆石の検査入院と言う理由で一週間から一ヶ月でも入院できるから、一人で頑張らないで。レスパイト目的の入院が可能です!介護施設ショートステイするより安いですよ!」と念を押されたので、まず2か月後の4月に10日ほど入院してもらう予定です。それが今から楽しみでしょうがありません。
2人の介護をするということで実家に戻ったのに、一人の介護になり、更に父を預けることを楽しみにしている私は何者?いやでも、人として当然の感情じゃないかな。
介護なんて誰もしたくないし、気合入れてしてみたら段々しんどくなるばかりだし。
父を見てると「そうまでして生きる理由があるか?」なんて思ってしまう。毎日すること無いしさ。人は自分の手で食べられなくなったらもう食べなくてもいい、と思う。食事介助なんて必要ない。それをすることによって介護者介助者どちらも疲弊するだけだから。どこかで見切りをつけても、それは罪にならないと思う。
実際、祖父の最後の介護をしたのは看護婦長までした叔母。最後は食事を与えなかった。痰が詰まるから氷だけ。私も母も栄養無いやん。牛乳やジュースを凍らせてあげればいいのにな~と思ったものでしたが、祖父のためには氷で良かったのです。おかげで寝込まず、褥瘡が出来ず、きれいな体で死ぬことが出来ました。
そこまで思いきれるのは長年の経験の賜物だと思います。普通はなかなか出来ないことでしょうね。
私は叔母のようにしたいと思っています。

つづく