日々のバリゾーGON

日々の罵詈雑言を書き連ねた日記です

飛びますが・・

次男と次男妻Tは何かあげるから取りに来てと連絡すると「貰いに来てやった」とドヤ顔でやってくるし、とにかく欲深いので、取られる前に取っちまおう!と実家の片づけと共に母が保管していた色々あった物の中から私が欲しい物をたくさん貰いました。次男妻Tになどくれてやるものか!という意気込みです。
2人の弟は私がそんなことをするなんて思っていないのかな?何も言ってこないので助かります。お金のことも何も言ってこない。タダの馬鹿なんでしょうか?

父は日に日に認知症状がきつくなっています。
体力も落ちてきてる。気にならないのか、次男はともかく、長男も音沙汰なし。

母は、今思えば誰のことも信用していないようでした。近所の人が「とてもいい人だった。口が堅いし優しいし」と私に言います。いい人と思われていたのでしょう。でも、私にとっての母は、とても気が強く本音などとても話せませんでした。
喪主の長男が挨拶として言った言葉「母は辛抱強く・・」参列者の心に響いたようですが、私は涙を流しながら「辛抱強いということは気が強いということだよなぁ」と冷静に思っていました。
母は誰にも本音を言いませんでした。だから近所付き合いが上手くいっていたのでしょう。
私にもそうでした。私が離婚前に息子を連れて実家へ帰った時も「弱音は聞かない」と高い塀を建てられました。だから私も母に本音を言ったり、相談したことはありません。

母は体力が弱くなると少しずつ本音を言い出しましたが、申し訳ないけど私は受け入れられませんでした。それは、しょうがない事だと思っています。だって人間だから。

母にどうして父にそこまで尽くすのかと尋ねました。「ここは谷だから。人の目がある」と答えました。実家は田舎で山を切り崩した場所にあります。人口も少なく人の行動がよく目につきます。だから「父の面倒をちゃんと見てる良妻。世間で評判の悪い次男妻ともうまくやっている良い姑」を演じていたのでしょう。
私なら出来ない。母は結婚でこの地で生きると自分の人生を決めたのでしょう。それも私には出来ない。嫌なら引っ越す・別れる、が私の人生です。
親子でこうも考え方が違うものでしょうか。

母が仲良くしていた奥さんが時々私の顔を見に来てくれます。その人は「母がいなくなって寂しい。ここへ越してきてからずっと大事にしてもらった」と言います。しかし母はその人の悪口を言っていました。それは口が裂けても言えません。

人って色々あるよなぁ、が感想です。

もう少し

次男のことをもう少し書いておきましょう。

母が亡くなって自宅に帰ってくる際に、狭い実家の片づけをしないといけませんでした。父は入院中なのでとりあえず父の部屋に、といっても昔の家なので壁ではなく全て襖で仕切られている家です。実家は冠婚葬祭が出来る家なのです。
次男は父の介護ベッドの上に色々と適当にポイポイ投げ込んでむさくるしい状態になりましたが、仏壇を置いている部屋は何もない状態になりました。その部屋は母の寝室にしており婚礼タンスも置いています。タンスの置き位置も適当に移動してどうにか母を迎える準備をしました。
全て次男とその妻が本当に適当にして、母が寝る布団などの用意はせず、一旦家に帰っていきました。二人がいなくなってから私が布団を敷き、母が寝れらるようにしたのです。どうせするならそこまでしろよ!と思ったものです。
翌日お通夜で、その日は私と母、2人の夜になりました。死体と一緒に寝る・・不思議と怖くありませんでした。
次男夫婦が適当に片付けて、その後始末を私がする、そんな構図が出来上がっていました。

15年ほど前、次男が妻を連れてきた際、母は「あの子はやめてくれ」と頼んだそうです。
次男妻をTとしましょう。
次男とTは一回り離れています。私が知っている限りで28歳と16歳が付き合っていました。知り合ったのはもっと前、おそらくTが4歳くらいの時だったのではないかと思います。地元の祭りがきっかけで、子供好きの次男は子供たちの世話をちゃんとしている、と母が言っていたのを思い出しました。
Tにとっては優しいお兄ちゃん、次男はロリコンなので本気で好きになっていたのでしょう。
次男が何故ロリコンかというと、昔「モー娘。で誰が好き?」と何気なく聞いたら「加護ちゃん」と言ったからです。そのとき次男は25歳くらいだったかな?私は「こいつロリコンだ!」と心の中で思ったのでした。
普通、若い嫁が来ると言ったら親は喜びませんか?それが、Tの実家は近所でもあまり好かれておらず、大きな声では言えませんが、Tの父親の兄弟の中に知的障碍者がいたのです。私は知的障害は遺伝ではないと思いますが、田舎の事なので嫌がる親が多いのです。ただ、そもそもTの両親は非常識で嫌われ者なのです。
だから、母は一番かわいい次男がそんな家の子と一緒になるなんて嫌だったのでしょう。世間体もあるし。それでも次男は押し切ってTと結婚しました。母は「次男はTが非常識なことをしたらきっと咎め
!」と期待していたようです。
それが今では、T家族に見事に取り込まれてしまい、非常識の塊!近所で評判の良かった次男が今は何て言われているか、想像するだけで、ざまーみろと思ってしまいます(*'ω'*)

話を戻して・・

Tは「捨てる」ということが好きみたいで、片付けの最中も何でも適当にゴミ袋に詰めていました。それがあの子にとっての「片付け」なのでしょうねぇ。
その日の晩御飯は次男一家と私と長男が実家にいて一緒に食べることになりました。次男一家は「何か食わせろよ」と犬みたいに私を見ていたので一万円を渡してお弁当を買ってくるように言いました。私は何故か冷凍の作り置きのカレーと肉じゃが('ω')があるので「うちの分はいらない」と言い、長男と私がダイニング、次男家族が弁当を座敷で食べました。それも変。
でもなぁ、どうせ買ってくるなら私がいらないと言っても何か買ってこないか?「いらないって言ったから買わなかった」だって。私のカレーを「変な食べ物」と次男の次男(ややこしいからHとします)が言ってたのちゃんと聞こえてるぞ!

次男は4人家族です。次男、妻T、長男K、次男H。これで行きましょう。

葬儀屋さんが次男に「住職に連絡して」と言っていました。私は諸々忙しくしていたので葬儀屋さんが気をきかせてくれたのだと思います。それから2時間くらい経って「連絡してくれました?」「電話に出ないから・・」「はぁ?連絡とってもらわないと!しょうがない、私が電話しましょう」と結局葬儀屋さんが住職と連絡を取りお通夜の段取りをしてくれました。
実家はお寺と遠い親戚なので直接電話できたのですが、アホな次男。

翌日、お通夜。19時からなので少し時間があり、私一人で二日ほど放ったらかしの父の見舞いに行きました。もちろん母のことは言えませんでした。
葬儀屋さんが16時までに「おっぱん」の用意をしておいてほしい。喪主である長男がそれをもって霊柩車に乗ると言いました。米を洗って、父の見舞いに行き15時頃に帰って炊くつもりが16時近くになってしまいました。
「おっぱん」を炊けていないけど、最終兵器の鍋で炊くと言う方法があるので余裕でしたが、実家に帰ると次男が「Tがご飯炊いといた。何合洗ってるか分からなかったから測りなおしてまで」心の中で「見たら分かるだろ?」と思ましたが「それはありがとう」と言っておきました。「おっぱん」をよそおうとすると、何と!かき混ぜているではありませんか!!!「おっぱん」は上澄みのご飯をよそうのだと祖母から教えられました。「あのアホ妻T!食べるご飯とちゃうぞ!」と心の中で叫びました。
それもそうだが何であんなに、してやった感満載に言われないといけないんだ?という疑問が沸々・・。

ちょっと長くなったので一旦終わります。

何故これだけしかないの?

母の死により銀行口座の解約と相続が必要になったので、戸籍を取り寄せたり色々と準備をしていく中で、実印がどこにあるのか分からず家中探し回りました。一ヶ月ほど見つからず、母の性格上どこへ隠すか、もしかして・・・と思った所に、ありました。父と母の実印が入ったカバンが!
やっと手続きが出来、母の預金は全て父の口座に移しました。それで父名義のものがほとんどなかったことに気づきました。やはり、父死後のことを考えて自分の名義にしていたようです。本当に皮肉。
今は私が一元管理しています。
父は定年まで勤めて生活できるだけの年金をもらっています。なのに、どうしてこれだけしかないのか?と言うような預金額です。慎ましく暮らしていたようですが、何に使ったのか不明です。
弟2人は預金額を知りませんが、もしかして相当あると思っているかも知れません。
特に次男は。
母が危篤になる前は長男より次男の方がマトモだと思っていました。それが今は逆・・いや、長男もそれほどマトモではないですが、次男に比べればマシ・・と言った程度かな。
次男語録を記しておきましょう。
まず、私が両親の介護を引き受けると宣言した日、どう思うか尋ねると「自分には介護の技術も知識もないから出来ない」へ―そうなの。技術?知識?いらないけどね。
ちなみにその日長男が言ったのは「仕事があるから出来ない」いい息子たちだ、うん!
次男にしてみれば長男がいるのに何故自分が引き受けなきゃならない?というスタンスみたいです。
色々あって、母が危篤になり医大から電話があったから私は今から行くと連絡すると「(一度目は行ったけど二度目は)行かなきゃいけない?」・・・そこで私は切れました。母親が死ぬ間際にそんなことを平気で言うなんて、こいつおかしい。なんて冷たい人間なんだ!・・とりあえず私は行くから!と電話を切って家を出ました。
それまでも次男から母への不満を聞いていました。その頃は彼とはまだ仲が良かったから。でも変な主張だったなぁと思っています。でも死を目前にしてもその不満が勝つのか?他人ならあるかもしれないが、母親だぞ。何より一番かわいがっていたのに。
それから私の次男に対しての見方が変わりました。ええ、180度。人って豹変するんだな、と自分の事ですがしみじみ思います。

つづく

また空いてしまった

続くとしておきながら、母のことを中途半端にでも終えたので、少しほっとしてしまいました。
母の死について毎日何かしら、思うことがありますがそれはその都度、書いていければと思っています。

父が退院して一ヶ月以上が過ぎました。最初は一ヶ月もつかな~?もってくれ!と思いながら介護していましたが、何とか二か月くらいは行けそうです。
こんなこと誰にも言えませんが、4月の入院後はいつ逝ってくれてもいいと思っています。
毎日認知症状が強くなるし、思うように歩けなくなってるし、食事も手が震えて食べにくそうにしてるし、生き地獄に陥りそうで嫌です。
それにしても・・・私は今から自分の死について考えますが、父と母は自分が後期高齢者と言う自覚がなかったのではないでしょうか?
自宅は小さな平屋ですが、敷地は100坪ありそのほとんどが庭です。父は木や花を植えて手入れをしていましたが、70代になっても「いつまでも出来るわけではない」と思わなかったのでしょう。84歳で脳梗塞になり、それから5年間、庭は放置状態。母はもともと庭の手入れにはノータッチでした。
私が去年実家に戻った時には草が生え放題で庭木は伸び放題。まるで廃屋状態でした。
母に頼まれ、3ヶ月かけて草引きと木の伐採をし、何とかスッキリさせました。その間に母は入院して亡くなったので今の状態を知りません。
数日前、父に「どうして庭にしたのか?何故畑にしなかったのか?」尋ねました。私なら畑にするかな~?と思ったので。
「見た目がいいから」という答えでした。どうせ草引きするなら畑の方が実用的だけどなぁ。庭の手入れは本当に大変です。多分私の親の世代は「自身の死」と言うものはどこか遠くにあるものと言う感覚なのでしょう。
私は祖母が亡くなった時に「命あるものは生まれて死ぬ」と思い知りました。だから自分の死についてもよく考えます。
息子に言うと嫌がられますが。
母も父が先に死んで、それからは自由を謳歌すると計画していたのだと思います。父の死への準備はしていましたが自分のそれは全くしていませんでした。だからとても困りました。

続く

ちょっと跳ばす

母は父の寿命が「あと2,3年だから。悔いを残したくない」と介護を頑張っていました。思えば脳梗塞後に父の自由にさせておけば、父はもっと早く逝っていたでしょう。それが母の献身で元気になってしまい返って母を苦しめた。今は生きる気力さえあれば、200歳まで生きることが出来るように思います。

母の術前のレントゲンを見ると、腰の骨がハロウィーンのカボチャの歯のようにガタガタでした。よくまあ、こうなるまで放っておいたもんだ、と思ったものです。母は父より9歳若いので、まさか自分が先に死ぬとは思っていなかったのでしょう。病床でも「お母ちゃんが先だったらどうする?」と尋ねた時、そんなこと考えるなんてナンセンスと言う表情をしていました。

医大での様子は追々書いていくことにします。是非お知らせしたいのですが、辛いことが多いので。

母の通夜・葬儀をあわただしく終えたあと、父の主治医から電話がありました。
「お父さんがコロナに感染したので隔離します。しばらく面会は控えてください」・・おかげで母を亡くした悲しみに浸ることが出来ました。ここからは冷静な私の気持ちです。何かタイミング良すぎない?もしかして父もこのまま?いや、それは困る。だって、母が亡くなってすぐに父も、なんてことになったら、母の入院後面倒を見ていた私が殺したみたいに思われるじゃないか?それは、非常に非常に困る!だから何としても助かってくれ!お父ちゃん!

父は復活しました。凄い生命力・・。その後、胆管に管を入れる手術をし、経過は良好。主治医は胆管癌の治療は出来ないが、3か月後に胆管のステント手術が出来るから、それをお勧めします。ただ、癌が大きくなってステントを圧迫するとまた胆管炎を起こすと言われました。

母を亡くした悲しみが大きく、父まで亡くすわけにいかないと、私は主治医の言葉に同意しました。
父の面会は毎日行っていましたが母のことは言えずにいました。ただ日々弱っていく姿、認知症が進んでいく姿を見ていると、最後は自宅で過ごさせてやりたいと思い、2月下旬に退院させました。
退院前に母が亡くなったことを伝えました。「・・そうか、あの子はよくやってくれたよ」それだけ?
そんなもん?どんな夫婦だったんだろう。
今は、父の介護のためM屋というファーストフード店を辞め、介護中心の生活。
退院後しばらくは弱っていましたが、今は元気になりました。あれ?

退院の際、主治医が「退院して一週間で再入院できるし、本人には胆石の検査入院と言う理由で一週間から一ヶ月でも入院できるから、一人で頑張らないで。レスパイト目的の入院が可能です!介護施設ショートステイするより安いですよ!」と念を押されたので、まず2か月後の4月に10日ほど入院してもらう予定です。それが今から楽しみでしょうがありません。
2人の介護をするということで実家に戻ったのに、一人の介護になり、更に父を預けることを楽しみにしている私は何者?いやでも、人として当然の感情じゃないかな。
介護なんて誰もしたくないし、気合入れてしてみたら段々しんどくなるばかりだし。
父を見てると「そうまでして生きる理由があるか?」なんて思ってしまう。毎日すること無いしさ。人は自分の手で食べられなくなったらもう食べなくてもいい、と思う。食事介助なんて必要ない。それをすることによって介護者介助者どちらも疲弊するだけだから。どこかで見切りをつけても、それは罪にならないと思う。
実際、祖父の最後の介護をしたのは看護婦長までした叔母。最後は食事を与えなかった。痰が詰まるから氷だけ。私も母も栄養無いやん。牛乳やジュースを凍らせてあげればいいのにな~と思ったものでしたが、祖父のためには氷で良かったのです。おかげで寝込まず、褥瘡が出来ず、きれいな体で死ぬことが出来ました。
そこまで思いきれるのは長年の経験の賜物だと思います。普通はなかなか出来ないことでしょうね。
私は叔母のようにしたいと思っています。

つづく

涙です

母は父の介護で腰を痛め、脊柱管狭窄症と診断されていました。腰は痛いものの、痛み止めとシップでごまかしていて、私が何度「それでは治ったことにならないから接骨院へ行こう」と言っても断られていました。腰の手術をしても治らないというのは、私が整形外科で勤めていた経験と母が近所の人との会話で分かっていたはずなのに、それでも手術を選択したのはとても辛かったからだと思います。

病院に着くと病室にはおらず、詰所の隣の緊急室のような所で点滴と鼻に酸素チューブを着けた母がいました。思わず涙が出ました。看護師が「消防へ電話したら救急車が今出払っているそうでもう少し待ってください」と言いました。母に声掛けしましたがうつらうつらした状態でした。「術後のリハビリを頑張り過ぎたからだよ」「早く家へ帰りたいもん」これから医大へ搬送されることを伝えると「洗濯物、取りに来てもらうの遠いわ」「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」看護師に対して「皆さん良くしてくださって・・」この期に及んでまだそんなこと言う?
その時やってきた医者が「熱がないしね~でも尿の色が濃いし、良く分からんのよ~笑」お前それでも医者か?瀕死の状態が分からないのか!熱は数日前に出ていて下がっていました。今にして思えば、その時に何か対処していれば!
やっと救急車がやってきました。いったんここは退院です。不愛想な事務員が私に請求書を突きつけました。私は母の荷物を積んで自分の車で向かいます。「お母ちゃん!私もあとから行くからね!向こうで会おうね!」と言って見送りました。

医大へ行ってから翌日に母は亡くなりました。死因は化膿性脊椎炎。医大へ運ばれた時点で敗血症性ショックという診断でした。やはり・・・。自分を責めました。何故「それ敗血症じゃない?」と言った時点で転院させなかったのか、敗血症をよく調べるべきだった。私自身も敗血症の怖さをよく分かっていなかったのです。でも何故「敗血症」が頭から出てきたのか。

あまりに突然の母の死。父なら納得できました。しかしこの理不尽さ。何なんだろう。

つづく

続きです

当直医から「とにかく入院して絶食と点滴をしてもらいます」。父は一命を取り留めたのでした。
突然入院準備やら何やら色々と目まぐるしい数時間を過ごし、やっと母の入院先へ辿り着きました。
2人が別の病院に入院となると「しんどいなぁ」と思いましたが、仕方ありません。
母は整形外科専門の病院、父は総合病院の内科。

父の状態が良くないことを弟二人に知らせました。
3人兄弟の私は第一子長女です。

母の病室で4人、父に万が一のことがあった場合どうするか、母の意向を聞きました。
母は、家族葬にして、近所の誰にも言わなくていい、父方の親戚にも言わなくていいと言いました。
葬儀屋さんの指定もありました。
母の腰も中々良くならず、葬儀には参加できないと言いました。

その日はそれで終了。私は翌日から二つの病院へ面会に行くことになりました。
コロナがどうのこうので病院は面会できるのは家族のみ、さらに時間指定ありで、まず父→母という順番で行くことにしました。
父の診察をした当直医は総合病院の副院長で、病状から治療の仕方まで丁寧に説明してくれました。
今回は胆管炎だが胆管癌かもしれないと言われ、検査をするとやはり癌でした。胆汁の流れをよくすることは出来るが癌の治療は年齢的に無理だと言われました。
ま、それはしょうがないです。だいたい脳梗塞してるし、母も子供たちもいずれは・・と覚悟はしています。

母に父が少しずつ回復していると伝えました。意外だったみたいです。胆管炎は「年寄りの最後の症状」と言っていましたから。いい医者にかかれば救われるのですね。

父が入院して2日が経ったころ、母がとてもしんどそうにしていることに気づきました。
良くなっていくはずの腰が全く良くならず、ベッドで横になったまま面会するようになりました。
「しんどい?」「しんどくないよ・・」と目をつぶるのです。
私は何故か「それ、敗血症じゃない?」と言いました。ブラックジャックでよくあったので覚えていました。
それからまた何故か「何か食べたい物ない?出汁巻きとか」すると母の表情がパッと明るくなり「そうやな、ちょっとでいい、ふた切れくらい。あと、ちらし(寿司)それもちょっとでいい」「出汁巻きにおろしは?」「欲しい。醤油をちょっとかけてな」「じゃ、明日持ってくるわ。今日はもう時間だから帰るな」面会時間は15分。母は寂しそうな顔をしました。「明日も来るやん」その時の私の気持ちは「明日も来るから頑張れ」何故かそう思いました。
翌日、朝から用事があったのでそれを済ませてから出汁巻きを作って、午後母に届けようと思いました。面会は午後からしか出来ないのです。また何故か「まさか、作らないまま終わらないよな」との思いがよぎりました。
9時に車で家を出てしばらく走ると母の病院から電話がありました。
「血圧が下がってきたので来てください」
・・・胸騒ぎと悪い勘が当たった気がしました。

つづく